今日はスクショを貼った振り返りはしない。

自分がふと思った二つのことを書き起こすつもりだ。

でも、二つともテーマは一貫している。

一つは、「自分の負け」について。もう一つは「自分の勝ち」について。

 

まずは「自分の負け」について語ろう。

 

夜に、こんな記事を見つけた。

 

blog.livedoor.jp

 

 FXというものを本格的にやった人で、些細なものも含めて負けや失敗を経験しなかった人などまずいないだろう。格率の高い方に賭けても下がるときは下がる。最初から99パーセント勝利するポジションを見つけるなんてことは世界的な経済事件の報道でも耳にしない限り難しい。

 全ての投資家にとって、程度の差はあれミスは確定的な未来だ。

 

 しかし僕はミスというものが嫌いである。それで物事をほとんど確実にこなす人間かというと違って、僕はミスの多い人間だ。相場でもやはりミスは多いし、誤った判断というのを何より嫌って行動する。

 ただ、僕は誤りを誤りであると認められないことが最大の誤りだとも考えていて、誤りだと自明になったら損切りはすぐにする。

 

 問題は、その「損切り」にまで誤りを許そうとしない、という性癖なのだ。

 詳しく言うと、損切りの「方法」というべきか。

 誤りそのものを認めることはそこまで苦手ではない。しかし、誤りだとわかって損切りしなくてはならないとなったとき、損切りをどのタイミングでするかを図る段階で判別が難しくなったとき、その判断にどこかしらの完璧さに近い「絶妙さ」を、心のどこかで求めてしまう。

 答えがはっきりしなくなったとき、僕の心は狂ってしまう。

 答えを求めて、その答えに即した最適解を求めて、狂わんばかりに不安定になり、視野が狭まり、「誤りの最高のフォロー」のみに頭が集中してしまうのだ。いや、頭が、という表現はよくない。現実そういった状態で働いているのは思考ではなく神経症であり、神経症は精神の稚拙さが生み出した反理性、反知性で、多くは自分自身への誤った認識に基づいた自己誇大妄想なのだから。

 判断における究極的な正しさが見えなくなり、自己の行動の所在がなくなったときに現れるのは、そういった自分自身への過剰な期待であり、願望なのかもしれない。

 よしんば損切りしおおえたにしても、その損害が大きかったり負けた回数が込んでいたら、そういった神経症の発作や大きなセルフイメージと現実のギャップを埋め合わせようとかなり無茶なポジションを握ろうとする。

 稼がなければ生きていけないという現実もあっての行動であり、失敗ゆえ自身の将来性可能性を不安視する恐怖を払拭したいという思いから出た行動でもあるのだが。

 

 話が若干本筋から逸れてしまったが、このように僕自身も本質的に失敗を厭い、厭うあまり失敗してしまった後のリカバリについて考えられなくなってしまう人間である。

 ゆえに、僕はポジションの完璧さを放棄する感覚と同じくらい、損切りの完璧さを放棄する勇気を持つべきなのだろうと思う。誤りをフォローする方法の誤りすらも認めて行動してしまうまでに、相場に自分の「誤り」を刻んでいくのだ。

 法則通りに行動し、結果には正解や道理と同じだけ誤りを残す。誤りのフォローにすら誤ってもいいし、自分が打ち建てた手法どおりポジションを取ることで、勝ちを重ねていくのだ。

 たとえ、その勝ちにすら、誤りが含まれていても。

 

 ただ、その損切りを迷わないように、もう少し、感情や無駄な思考の差し挟む余地が少なくなる損切りのルールを決めるべきなのかもしれない。

 正しさは判断や行動よりも、その原理となる手法に求めるべきなのか。完璧な手法などFXにおいては無いのでそちらもほどほどにしたいが。

 

 書いていたらかなり時間が経ってしまった。もう片方のテーマについてはまた次の記事にしようか。ちゃんと今日の湧いた考えを、未来の自分が覚えておいてくれているかは微妙だが。